国際・政治

「慰安婦合意の履行」を巡る誤解と現実 澤田克己

会談後に共同記者会見をする岸田文雄首相(右)と韓国の尹錫悦大統領(首相官邸で3月16日)
会談後に共同記者会見をする岸田文雄首相(右)と韓国の尹錫悦大統領(首相官邸で3月16日)

 岸田文雄首相と韓国の尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領の会談を受け、10年以上も停滞してきた日韓関係の改善ムードが高まっている。ただ、日本側は徴用工問題の解決策を歓迎しつつも、「慰安婦合意のように後で形骸化するのではないか」という疑念を拭えずにいる。岸田首相が首脳会談で慰安婦合意の履行を求めたというのも、そうした雰囲気を反映したものだ。ただ、この「慰安婦合意の履行」というのが何を意味するのかについては、理解が広がっていないように思える。今回はこの点について考えてみたい。

合意の精神を踏みにじった文在寅前大統領

 日本では一般的に「文在寅(ムン・ジェイン)前大統領が慰安婦合意を形骸化させた」と言われている。「反故にした」と表現されることもある。印象論で言えば、その通りだろう。文氏が合意に否定的で、その精神を踏みにじったことは明白だ。

 文氏は2017年5月に就任すると早速、合意の検証チームを発足させた。ただ12月にまとまった検証結果は、朴槿恵(パク・クネ)政権の青瓦台について、「当事者無視の交渉を水面下で進めた」などと非難することに主眼を置いたものとなった。結果を受けた政権の立場は「合意で解決されたわけではないが、再交渉を求めることもしない」という極めて歯切れの悪いものだった。

 翌年の11月には、合意に基づいて設立された「和解・癒やし財団」を解散し、事業を終了すると発表した。一方で、2021年1月の年頭記者会見では、「慰安婦合意は両国政府間の公式合意である」と認めた。文政権はこの間、日本の拠出金10億円に見合う額を韓国の政府予算から拠出して「両性平等基金」を作りはしたが、何か特別な取り組みをしたとは言えない。実際には放置に近かった。

尹政権に改めて求める「履行」の中身とは

 では、2015年12月の慰安婦合意は、どのような内容だったのか、改めて振り返ってみよう。当時の岸田外相と尹炳世(ユン・ビョンセ)韓国外相が口頭で発表したのは、次のようなものだった。▽日本政府が責任を認め、安倍晋三首相が「心からおわびと反省の気持ち」を表明する、▽韓国政府が慰安婦支援の財団を作り、日本政府が10億円を拠出する、▽韓国政府は、ソウルの日本大使館前に建てられた少女像の問題を適切に解決するよう努力する、▽国連などの場で非難・批判することは控える、▽合意が着実に履行されることを前提に、「最終的かつ不可逆的」な解決を確認する――。

 「履行」という面から見ると、▽日韓協力による財団設立と事業遂行、▽韓国政府が少女像問題の解決に努力する、▽相互に非難・批判を控える――という3点になる。財団については、「元慰安婦の名誉と尊厳の回復、心の傷の癒やしのための事業を行う」(岸田氏)と発表された。その後、財団から、合意時点で生存する元慰安婦に1人当たり1億ウォン(約1000万円)、遺族に同2000万ウォン(約200万円)が支給されることになった。

 韓国との外交に関わる日本外務省の幹部は合意の現状について、こう説明する。

 「財団は生存者47人中35人への支給を行った。(残りの人は受け取り拒否なので)これ以上の動きはないだろう。文政権は、少女像に関する努力義務を怠った。国際社会における非難については、文政権はしていたが、尹政権はしていない。尹政権にはこれを続けてもらいたい」

 韓国での世論を考えれば、少女像の移転は非常にハードルが高い。どんな政権であろうと、近日中に何らかのアクションを取ることは不可能だという見立てが支配的だ。となると実は、尹氏に求める「履行」の中身は「国連などで持ち出さないという今の姿勢を続けて」という点しか残らない。少女像について求めることができるのは、あくまでも「努力」どまりなのだ。

 ちなみに日本大使館は8年前、建て替えのため隣接するオフィスビルに移転した。そのため、少女像はいま空き地の前に建っている。日本政府は建て替え工事を始めず、「少女像がなくなれば戻る」という構えだ。いつ工事が始まるかは「神のみぞ知る」という状態である。

韓国側で語られる「履行」とは何か

 面倒なのは、韓国では違った受け止め方をされていることだ。そもそも岸田氏が首脳会談で、慰安婦合意の履行を求めたこと自体への反応が否定的だ。尹政権が徴用工問題で大胆な決断をしたのに、岸田氏は過去の談話にあった「謝罪」や「おわび」という表現を口にするわけでもなく、その上さらに何を言い出すのか、という反発である。

 さらに「履行」の中身についても認識が異なる。聯合ニュースは「慰安婦合意の行方にも注目」という記事を配信したが、そこで注目されているのは「基金に残っているおカネ」だった。

 日本政府が財団に拠出した10億円は元慰安婦らに支給されたが、まだ56億ウォン(約5億6000万ウォン)残っている。さらに文政権が韓国政府予算から拠出した103億ウォンもある。財団は解散したが、おカネが消えてしまったわけではないからだ。

 この話になると、合意の内容に立ち戻らざるをえない。岸田氏は財団の役割として、元慰安婦の「名誉と尊厳の回復、心の傷の癒やしのための事業を行う」と明言したのである。

違和感を禁じ得ない「履行」への執着

 国際社会で「名誉と尊厳の回復」が語られる場面では、「教育」や「研究」、「記憶」という言葉が入ってくることが多い。慰安婦とは異なるテーマではあるが、2000年に開かれたホロコーストに関する初めての大規模国際会議では「犠牲者の痛みに共感する記憶の重要性」を強調する宣言文が採択された(林志弦『犠牲者意識ナショナリズム』)。

 だが日本政府高官も残ったおカネをどう使うかという二国間協議はありうると認めながらも、「記念碑を建てるというようなものは、日本として受け入れがたい」と言う。そうなると何をするのかという問題は出てくるが、現実問題として慰安婦問題の「教育」や「研究」「記憶」で協力するというのは考えにくい。

 現在の尹政権の姿勢を見ると、日本の求める「非難の自制」は言われなくても続けるだろう。一方、尹政権に「残りのおカネ」で新たな事業を進めようというマインドは感じられない。つまり日本側から新たに求めるべき現実的な要素はない。そして、韓国で一般に考えられている「履行」の話を始めると、新たな頭痛の種が生まれることになる。にもかかわらず日本側が繰り返し「履行」を求めるというのは、いささか違和感を覚えるのである。

澤田克己(さわだ・かつみ)

毎日新聞論説委員。1967年埼玉県生まれ。慶應義塾大学法学部卒業。在学中、延世大学(ソウル)で韓国語を学ぶ。1991年毎日新聞社入社。政治部などを経てソウル特派員を計8年半、ジュネーブ特派員を4年務める。著書に『反日韓国という幻想』(毎日新聞出版)、『韓国「反日」の真相』(文春新書、アジア・太平洋賞特別賞)など多数

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