国際・政治 日韓関係
福島「処理水」問題 韓国政府“毎日ブリーフィング”の中身 澤田克己
韓国の尹錫悦(ユン・ソンニョル)政権が、東京電力福島第1原発からの処理水放出に対する拒否反応を鎮静化させようと躍起になっている。関係省庁による合同ブリーフィングを毎日開くという、異例ともいえるほど広報体制を強化した。背景にあるのは、野党の「共に民主党」がこの問題を国内政局のために利用し、政権攻撃の材料に使っているという判断だ。日本の外務省幹部が「すごく頑張ってくれている」と驚きを隠さないブリーフィングでは、いったい何が話されているのだろうか。
科学的事実をひんぱんに提供
平日午前11時から、関係省庁の責任者や民間の専門家が記者から質問を受ける。新型コロナウイルス対応で政府の責任者が連日、記者団に説明したスタイルを踏襲したのだという。
6月15日に開かれた初回のブリーフィングで、国務総理室の朴購然(パク・クヨン)国務調整室第1次長が狙いを語った。「情報が不足したり、正しくない情報によって不安が高まったりすることがあってはならない。科学的事実に基づく情報をひんぱんに提供することが必要だと判断し、コミュニケーションの窓口として毎日のブリーフィングを進めることになった」
この日は、韓国沿岸海域での放射性物質の検査結果は2011年に起きた原発事故の前後で大きく変化しておらず、国際的な安全基準の数千分の1から数十万分の1レベルだと説明された。韓国ではこれまで水産物の検査が約7万5000件実施されたが、基準値を超えたものは1件もなかったという。
日本から輸入された食品については、放射性物質が微量でも検出されれば追加の証明書を要求することになっている。そうした事例はこれまでに136件あったものの、すべて2014年以前のものだった。
「汚染水なのか、処理水なのか」
韓国では、日本との間を往来する貨物船が積むバラスト水に対する懸念も語られる。この点については、「福島県と近隣の計6県から(韓国へ)来た船舶の検査を11年から続けているが、バラスト水も韓国沿岸と同じ水準だ」とされた。
この他にも、▽国際原子力機関(IAEA)による検証では韓国の研究機関も分析に加わっていること、▽ALPS(放射性物質を取り除く多核種除去設備)で除去できない三重水素の海洋放出によって健康に悪影響があるとは考えられないこと、▽海洋放出は一般的に行われている方法であり、安全基準も確立されていること――など、多くの点が説明された。
6月22日のブリーフィングでは、「汚染水なのか、処理水なのか」という質問が出た。韓国では一般的に「処理水」ではなく「汚染水」と呼ばれている。与党などから「処理水に変えるべきではないか」という意見も出ているが、現時点では政府も「汚染水」を使う。共に民主党の李在明(イ・ジェミョン)代表は「核廃水」という刺激的な言葉を使って政府攻撃のトーンを高めており、政治的にセンシティブな問題だ。
この質問を受けた政府当局者は明確な答を避けたものの、続いて別の質問に答えた専門家が追加で語った説明は明確だった。「学問的に見れば、処理水か汚染水なのかという話には、異論の余地がない一つの答がある。それにもかかわらず、世論を汚染水(と呼ばせるよう)に引っ張っていこうとするから、政府も仕方なくこうなっている」
狂牛病騒動の教訓
日本と海を隔てた隣国である韓国で、一般的な感覚として海洋放出がひと事だと思えないのは当然だろう。特に「食の安全」にかかわる問題となると敏感になる人が多く、読売新聞と韓国日報が5月に実施した韓国での世論調査では処理水放出に「反対」が84%と圧倒的に多かった。共に民主党はこうした世論を背に、尹錫悦政権を攻撃する材料として処理水問題を集中的に取り上げている。与野党双方の関係者が、処理水の問題は「韓国の国内政局になっている」という認識を示す。
ブリーフィングについて与党関係者に聞くと、「2008年の『狂牛病』騒動を再現してはならない。だから始めたのだ」という答が返ってきた。牛海綿状脳症(BSE)の発生を受けて止めていた米国からの牛肉輸入再開を決めた李明博(イ・ミョンバク)政権が、世論の猛反発に見舞われて発足3カ月にして支持率10%台に落ち込むという苦境に陥ったことがあるからだ。この時は進歩派テレビ局の看板番組が恐怖心をあおるような特集を組んだこともあって、輸入再開に反対する大規模なロウソクデモが連日のように行われた。
今回も「食の安全」が政権攻撃の材料になっている構図は同じで、それだけに政権側は危機感を抱いている。
ただし、当時とは違う点も少なくない。保守派の政治学者は「『狂牛病』騒動の方がはるかに深刻だった。あの時は本当に大騒ぎだったが、今回はそこまでにはなっていない」と語る。政治理念に基づく社会の分断が進んだことで、尹錫悦政権を支持する保守層には野党による批判が響かなくなっている側面も大きいという。
処理水問題が政権支持率に悪影響を与えていないことが、そうした見方を支える。野党は、今年3月に徴用工問題の解決策が発表されてから対日政策への批判を強め、その流れで処理水の問題でも尹政権の対応を攻撃している。だが、今年に入ってからの政権支持率は30%台後半で大きく動いていないのである。徴用工問題の解決策と処理水の海洋放出はどちらも否定的な見解の方が多いものの、支持率に影響を及ぼしているとはいいがたいのである。
進歩系の新聞社にいた元記者にも聞いてみると、やはり「『狂牛病』騒動」が教訓になっている面があるという見方だった。米国産牛肉の輸入問題はいつの間にか鎮静化し、今では当時の心配は杞憂だったと考える人が多い。それだけに、処理水の問題でも騒ぎとは距離を置こうとする傾向があるように思えるということだった。
とはいえブリーフィングについて「日本政府や東京電力がすべきことではないか」という韓国野党の批判には耳を傾ける余地がある。迅速かつ正確な情報を届け、信頼を得ようとすることはリスクコミュニケーションの基本だ。韓国政府がそれを実践しようとするのであれば、その姿勢は見習うべきだろう。
澤田克己(さわだ・かつみ)
毎日新聞論説委員。1967年埼玉県生まれ。慶應義塾大学法学部卒業。在学中、延世大学(ソウル)で韓国語を学ぶ。1991年毎日新聞社入社。政治部などを経てソウル特派員を計8年半、ジュネーブ特派員を4年務める。著書に『反日韓国という幻想』(毎日新聞出版)、『韓国「反日」の真相』(文春新書、アジア・太平洋賞特別賞)など多数