国際・政治 南北関係

北朝鮮「ゴミ風船」vs. 韓国「拡声器放送」――憂慮される偶発的な軍事衝突 澤田克己

北朝鮮が送ったと推定されるゴミ風船を回収する韓国軍兵士=2024年5月29日 聯合ニュース=共同
北朝鮮が送ったと推定されるゴミ風船を回収する韓国軍兵士=2024年5月29日 聯合ニュース=共同

 北朝鮮が韓国にゴミ風船を飛ばし、韓国が最前線地帯で大型スピーカー(拡声器)による宣伝放送を再開する――。日本の感覚ではピンとこないかもしれないが、韓国では偶発的な軍事衝突にエスカレートする可能性が強く意識され始めた。なぜ、そこまで深刻な話になるのか改めて考えてみたい。

宣伝ビラ作戦には長い歴史

 発端は、韓国の脱北者団体が5月に金正恩(キム・ジョンウン)体制を批判するビラを大型風船にくくり付けて北朝鮮へ向けて飛ばしたことだ。K-POPやトロット(韓国の演歌)を収めたUSBメモリーも一緒に入れられた。憲法裁判所が昨年、文在寅(ムン・ジェイン)政権時に制定されたビラ散布禁止法を違憲としたことを受けた動きだった。

 朝鮮半島での宣伝ビラの歴史は長い。朝鮮戦争(1950~53年)では国連軍と北朝鮮軍が計28億枚をまいたとされる。休戦後は、南北が自らの優位性を相手方の一般住民に訴える道具として使われた。ただ韓国からのビラ散布は近年、民間の脱北者団体によるものだ。なるべく多くの人に拾ってもらおうと、歌やドラマの入ったUSBメモリーや1ドル札を同封するのが一般的となっている。

韓国の尹錫悦大統領は拡声器放送を再開(記者会見を行う尹大統領を映す家電量販店のテレビ)=2024年5月9日 Bloomberg
韓国の尹錫悦大統領は拡声器放送を再開(記者会見を行う尹大統領を映す家電量販店のテレビ)=2024年5月9日 Bloomberg

 北朝鮮は特に、金正恩氏をののしるような文言に神経をとがらせている。朴槿恵(パク・クネ)政権だった2014年には、脱北者団体が飛ばした大型風船に北朝鮮軍が銃撃を加え、韓国軍が応射する事件が起きた。不測の事態に発展するのを恐れ、自制してほしいという朴政権の要請を無視しての散布だった。

 18年には、文在寅(ムン・ジェイン)大統領と金正恩氏が首脳会談でビラ散布の中止に合意した。だが米朝、南北対話が頓挫した後の20年に脱北者団体がビラ散布を強行し、北朝鮮が猛反発することになった。北朝鮮は金正恩氏の妹である金与正(キム・ヨジョン)党副部長の談話で文政権に適切な対応を取るよう要求するとともに、板門店に近い北朝鮮側にあった南北共同連絡事務所を爆破した。こうした経緯を経て、前述のビラ散布禁止法の制定となったのである。

朴正熙政権で始まった拡声器放送

 北朝鮮は今回、紙くずなどのゴミをくくり付けた大型風船を韓国に向けて飛ばした。砲撃などに比べればおとなしい「嫌がらせ」レベルではあるが、落下してきた風船の衝撃で車のフロントガラスが割れる被害も出ている。今のところ現実味は薄いものの、生物・化学兵器だって同じ手口で散布できる。韓国側の強い反発は当然だろう。なお韓国軍の発表は「汚物風船」だが、ふん尿が入っていたわけではないようだ。日韓で同じ漢字語が使われても、ニュアンスが違う好例といえる。

 韓国の尹錫悦(ユン・ソンニョル)政権は、ゴミ風船の散布をやめないなら「北朝鮮にとって耐えがたい措置に着手する」と警告した。これが、18年の南北首脳会談を受けて中止された最前線地帯での拡声機放送の再開だった。

 拡声器放送が始まったのは朴正熙(パク・チョンヒ)政権だった60年代で、10キロ先でもよく聞こえる大音量で実施された。最前線にいる数十万人の北朝鮮軍兵士に内外の情勢を伝え、体制を動揺させようとする心理戦だ。体制宣伝だけでなく、内外のニュースや歌、天気予報などが放送された。南北関係の緊張と緩和に合わせて中断と再開が繰り返されてきた。

北朝鮮で行われた多連装ロケット砲の一斉発射=2024年5月51日 朝鮮中央通信=共同
北朝鮮で行われた多連装ロケット砲の一斉発射=2024年5月51日 朝鮮中央通信=共同

 北朝鮮では00年代以降、中国を通じて韓国の歌やドラマが流入するようになり、多くの人がひそかに楽しんでいる。そうした素地があるだけに、宣伝放送への北朝鮮側の警戒感は高まっているとされる。

 韓国の李明博(イ・ミョンバク)政権が2010年に哨戒艦沈没事件への対抗措置として対北宣伝放送を再開すると発表した際には、北朝鮮が「再開すれば拡声器を狙って攻撃する」と猛反発した。このため韓国は拡声機放送を見合わせ、FMの宣伝放送再開にとどめた。15年に朴槿恵政権が拡声機放送を再開させると、北朝鮮は韓国側に砲撃を加える一方、南北対話を通じて中止を強く要求した。この時は結局、半月後に中止が合意されたものの、16年に北朝鮮が核実験を強行したことで再開された。

エスカレートすることなく事態収拾できるか

 今回も尹政権は「ゴミ風船の散布を続けるなら拡声機放送を再開する」という警告にとどめていた。そして北朝鮮は国防次官の談話で、風船散布の「暫定中止」を宣言した。「韓国の連中に、散布された紙くずを拾い集めることがどんなに気持ちが悪く、多くの手間がかかるかを十分に体験させた」から中止するという理屈だ。談話は、韓国側からのビラ散布が再びあれば「100倍の紙くずとゴミを再び集中散布する」と宣言した。

 ただ前述の通り、韓国側からのビラ散布は民間団体によるものだ。保守派で厳しい対北政策を取った朴槿恵政権も自制を求めたものの無視され、進歩派の文政権が制定したビラ散布禁止法は憲法裁で違憲とされた。北朝鮮との対決姿勢を見せる現政権としては「表現の自由だ」と静観することとなり、脱北者団体はその後も対北ビラを散布した。

 それを受けて北朝鮮が再び、ゴミ風船を飛ばし、尹政権は拡声器放送を再開した。金与正氏は、拡声器放送再開を受けて「韓国がビラ散布と拡声器放送の挑発を並行するなら疑いようもなくわれわれの新たな対応を目撃することになる」と警告した。「これ以上の対決危機を招く危険な行為を直ちに中止し、自粛すべきだ」とも述べて、エスカレートさせたくないという姿勢をにじませてはいるが、事態がこのまま収まるかは見通せない。

 拡声機放送の再開を受けて6月10日の韓国紙は一斉に社説を掲載した。各紙とも北朝鮮のゴミ風船を「無責任で幼稚な挑発」(ハンギョレ新聞)などと非難しつつ、偶発的な軍事衝突に発展することを憂慮している。

 保守系の朝鮮日報は「拡声器放送(の再開)に北朝鮮は黙っていないだろう」と警戒感を示した。一方で進歩系のハンギョレ新聞は事態のエスカレートを危惧しつつ、脱北者団体によるビラ散布を政府が止める努力をすべきだと主張した。ビラ散布禁止法を違憲とした憲法裁の決定は「刑事処罰までするのは表現の自由に対する過度な制限だ」というものであり、ビラ散布の禁止という「立法目的は正当だ」と判断していたからだ。この点を巡っては、韓国内で激しい意見対立を呼ぶ可能性がありそうだ。

澤田克己(さわだ・かつみ)

毎日新聞論説委員。1967年埼玉県生まれ。慶應義塾大学法学部卒業。在学中、延世大学(ソウル)で韓国語を学ぶ。1991年毎日新聞社入社。政治部などを経てソウル特派員を計8年半、ジュネーブ特派員を4年務める。著書に『反日韓国という幻想』(毎日新聞出版)、『韓国「反日」の真相』(文春新書、アジア・太平洋賞特別賞)など多数。

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