なぜ日本政府の意志決定はいつも質が低いのか=孫崎享
新型コロナウイルスの感染拡大で、必需品の買い占めや転売が問題化するなど、市民の間に不安が広がっています。
「検査」なのか「隔離」なのか、「不要不急」とはどういう意味か、そもそも今の目標は「封じ込め」なのか「重症者の医療」なのか、コンセプトや目的がいまいち伝わってこないことも、市民のあいだに不安を惹起(じゃっき)する一因ではないでしょうか。
元外務省情報局長として官僚組織の実態に向き合ってきた孫崎享氏は、「太平洋戦争への道をみればわかるとおり、日本の指導層の意志決定は質が低い」と語ります。
書籍『日本国の正体』(孫崎享著、毎日新聞出版刊)からの一部抜粋をおとどけします。
なぜ「愚策」と知りながら意志決定してしまうのか?
○太平洋戦争における死者は厚生省の発表によると三一〇万人余(内軍人軍属二三〇万人、沖縄住民を含む在外邦人三〇万人、内地での戦災死亡者五〇万人)
○それも日本の真珠湾攻撃から始まるという日本歴史上の最大の愚策
真珠湾攻撃という最大の愚策は、ある日突然に決定されたわけではない。この道に来るには、幾つかの転換期があったと思う。それらを列挙してみたい。
①日露開戦後の満州への進出
「満州は日本の生命線」として出て行ったが、日露戦争後の満州進出には、日本は法的根拠を何も持っていない。
日露戦争が終わり、米国のルーズベルト大統領が仲介役に入り、日露講和条約(ポーツマス条約)が結ばれた。ここには次の合意がある。
「第三條 日本國及露西亞國は互に左の事を約す
一遼東半島租借權が其の效力を及ぼす地域以外の滿洲より全然且同時に撤兵すること
-日本國又は露西亞國の軍隊に於て占領し又は其の監理の下に在る滿洲全部を擧げて全然清國專屬の行政に還附あること」
一九〇六年五月、首相官邸において元老及び閣僚の「満州問題に関する協議会」が開かれ、伊藤博文(元首相)が次の主張を行っている。
「満州方面に於ける日本の権利は、講和条約に依って露国から譲りうけたもの、すなわち遼東半島租借地と鉄道の他には何物もないのである…(中略)…。
仕切りに満州経営を説くけれども、満州は決して我が国の属国ではない。属地でもない場所に、我が主権の行はるる道理はない」(平塚篤編『伊藤博文秘録』)
この時に伊藤博文が説くように、満州を国際協調で対応していれば、戦争の道はない。
②一九三二年三月満洲国建国。
傀儡政権として、溥儀を満洲国皇帝とする。国際連盟は一九三二年三月リットン調査団を中国、満州に派遣。日本はこれを不服として一九三三年三月国連より脱退。この時に国際世論に耳を傾ければ戦争の道はなかった。
③満州の治安を維持するためには中国の国境周辺を制圧しなければならないとして、中国本土への攻撃に踏み切る。
その最初が一九三三年二月の熱河作戦で、昭和天皇は、「(作戦許可を)取り消したし。閑院宮に伝えよ」と指示するが、奈良侍従武官長は「陛下のご命令によりこれを中止せんとすれば大なる紛糾を惹起し、政変の因とならさるを保ち難し」と天皇を脅し、これより天皇の対応が変化する。
④中国全土に激しい排日運動が展開される。
一九三二年一月、上海市郊外に十九路軍の一部(第七八師団)が現れ一月二八日日本軍と中国軍とが衝突し、戦争状態に入る。
⑤日本軍は蒋介石軍、中国共産党軍と中国全土で戦う。
⑥欧米は蒋介石政権を支えるため武器をベトナム、ビルマ等を経由して送っている。このルートを遮断するため仏領インドシナに進出する。
⑦米国が対抗措置として石油の全面禁輸を行った。
インドネシアの石油を確保しようとすると米国と対立するので、日本側から米国を先に攻撃する。
指導者たちの「思考停止」がなぜ起きるのか
こうした一連の動きで顕著なのは「自分がこうしたいからする」ということで指導者たちの思考が止まっていることである。
自分が行動すれば、当然相手がそれに対して対抗手段をとる。だが、当時の日本の指導者たちには、相手がどう行動するかについての考察がほとんど、欠如している。
幣原喜重郎著『外交五十年』は、危機感の欠如について、次のように書いている。
「一九四一年(昭和十六年)の夏、…(中略)…近衛首相から面会を求められた。…(中略)…近衛公は私に向かって『いよいよ仏印の南部に兵を送ることにしました』と告げた。私は、『船はもう出帆したんですか』と聞くと、『エエ、一昨日出帆しました』という。
『それではまだ向うに着いていませんね。この際船を途中、台湾かどこかに引き戻して、そこで待機させるということは、出来ませんか』
『すでに御前会議で論議を尽して決定したのですから、今さらその決定を翻すことは私の力ではできません』との答えであった。
『そうですか。それならば、私はあなたに断言します。これは大きな戦争になります』と私がいうと、公は『そんなことになりますか』と、目を白黒させる。
私は、『仏印に行けば、次には蘭領印度(今のインドネシア)へ進入することになります。英領マレーにも進入することになります。そうすれば問題は非常に広くなって、もう手が引けなくなります。』…(中略)…。
じっと聞いていた近衛公は顔面蒼白となり『何か外に方法がないでしょうか』という」
(幣原喜重郎『外交五十年』中央公論新社、一九八六年)
上記は一つのエピソードである。このエピソードが示すように、自分が行動をとれば相手がどう出るか考えるという「戦略的思考」を、日本では最高決定者の首相ですら実行できていないのである。