マーケット・金融学者が斬る・視点争点

武漢の新型コロナウイルス情報を「隠蔽」したのは誰か(渡辺真理子・学習院大学経済学部教授)

香港の林鄭月娥行政長官(右)と握手を交わす中国の習近平国家主席=マカオの東アジア競技大会体育館で2019年(令和元年)12月20日、福岡静哉撮影
香港の林鄭月娥行政長官(右)と握手を交わす中国の習近平国家主席=マカオの東アジア競技大会体育館で2019年(令和元年)12月20日、福岡静哉撮影
渡辺真理子氏(学習院大学経済学部教授)
渡辺真理子氏(学習院大学経済学部教授)

情報公開遅らせた現場外し

 4月に入ってから米トランプ政権が、中国が新型コロナウイルスの発生を隠蔽(いんぺい)したと追及を強めている。これは機密情報なども絡む可能性があり、真相はなかなかわからない。しかし、公開された情報から、官僚機構がこの新型感染症発生の情報をどう扱ったのか、ある程度見えてくる。

 中国の中央集権は、「条塊問題」という課題を抱えている。「条」は貫徹する、「塊」はブロックするという意味であるが、中央政府による垂直的なコントロールと地方政府の裁量のせめぎあいを示す言葉として定着している。この問題は、中国のあらゆる政策に出没する。そもそも、鄧小平がスタートした改革開放も条塊問題の調整だった。中央のコントロールよりも、地方政府の裁量を高めてインセンティブを生み、地方間の競争を通じて、経済発展を達成した。

 そのために、本来は議会である人民代表大会の管轄である徴税権が、長らく地方政府に「授権」されてきた。地方政府による保護主義で市場のゆがみが発生したが、経済発展に貢献した。しかし、習近平政権は、徴税権を地方政府から人民代表大会に戻す決定をしている。

SARSで“直報”に

 実際、地方が収集する情報をなかなか把握できない中央政府がじれて、独自の情報収集体制を構築することはままある。国内総生産(GDP)の集計を行う国家統計局はその形をとっている。また、2005年に豚の肥育量が藍耳病の流行で激減したときは、農業部(現・農業農村部、日本の農林水産省に該当)が全国各地に観察点を設置し、毎日豚の肥育数と出荷数の情報を中央に集める通報システムを構築した。

 感染症については、02〜03年に流行したSARS(重症急性呼吸器症候群)の経験が制度改革の契機となっている。

 まず02年に、感染症対策のコントロールを担う組織として、米国の疾病予防管理センター(CDC)にならい、中国疾病予防管理センター(CCDC)を、国家衛生健康委員会の下部組織として設立。しかし、中国の有力経済誌『財経』によれば、SARS発生時は中国国内の感染症の報告システムは月1回紙で行うもので、まったく状況に対応できなかった。この反省から、医療現場から感染症情報をCCDCに瞬時に直接報告する“インターネット直接報告(直報)システム”を、中央政府と地方政府の共同出資で構築した。中国メディア『財新』によると、07年には運用規定が定められ、各省の感染症専門の医療機関では100%、省、市だけでなく、郷、鎮といった基礎レベルの医療機関の94%がカバーされているという。

 世界保健機関(WHO)は05年に国際保健規則(IHR)を改正し、「国際的な公衆衛生上の脅威となりうる事象」が発生した場合、加盟国に評価確定後24時間以内にWHOに通報するよう義務づけた。同時に、WHOはさまざまな経路で寄せられる情報に関して、当該国に照会・検証を求めることができる、とした。

 しかし、今回、武漢で流行が始まったとき、この中国の直報システムは十分に機能しなかったと思われる。なぜか。複数の調査報道から見えてくるのは、条塊問題である。

病院の入力が削除

 まず、行政部門は次のように動いた。武漢市政府と武漢市CDCは19年12月30日、原因不明肺炎のアウトブレイク(感染爆発)を宣言し、試行診療マニュアルを定めた。このとき、情報管理からCDCを外し、行政が占有した。翌31日には、中央から専門家が派遣され、さらに翌日の20年1月1日に当初感染源と目された華南海鮮市場が封鎖された。1月3日には、国家衛生健康委員会がWHOに報告を行っている。1月7日にはウイルスのゲノム解析が終わり、中央政府に結果が報告されている。しかし、国家による防疫体制の構築が宣言されるのは1月20日。さらに、武漢市の封鎖が始まったのは1月23日だ。

 現場の病院では、何が起きていたか。武漢大学中南医院(武漢市)では1月2日、2人の陽性患者、翌3日には市場と関係する3人の「ヒトからヒトへの感染」が報告された。この日は、中央でWHO通告が行われている。同時に、この病院では発熱外来を設置すると、4日には124人が殺到した。

 しかし、このとき、直報システムが機能しなかった。

 武漢市中心医院(同)では、昨年12月27日に陽性患者が確定し、市政府と市CDCに口頭で報告。『財経』によれば、直報システムへの入力方法を誰も知らなかった。『財新』によると中南医院は、遅くとも今年1月9日には直報システムに入力をしていたが、その後、削除されていたという。

 中央のCDCの複数の専門家は、1月3日から同10日までは、武漢市の原因不明肺炎の発生報告を閲覧できたが、その後、見られなくなったと証言している。『財新』によれば、この直報システムの情報は、直接中央に送られるものであり、区、市、省の衛生部門とCDCはともに閲覧はできるが、少なくとも市と区には削除する権限はないという。

 その後、1月12日から17日まで、湖北省の全人代、政治協商会議が開かれ、20日に国家による防疫体制が構築されて初めて、直報システムへの入力が可能になったという。その間、中南医院での感染確定者は1月12日に45人、13日55人、14日62人と急増し、医療崩壊が進んでいった。

 その後、中国の新型コロナ対策の専門家のトップである鍾南山氏は、「CDCに行政権を与えてほしい。現在の中国の『感染症防治法』の規定に従えば、CDCは情報を報告・公表する権限がなく、国務院の衛生部門およびその地方系統のみが公表する権限を持つ。それゆえに、ヒトからヒトへの感染が確認されてから、発表するまで20日もかかってしまった」と語っている。一方、武漢市長は、情報公開を進めるには、いちいち中央政府の許可を得る必要があり、どうにもできなかった、と発言している。

 結局、条と塊のバランスはなぜ崩れたのか。真相はいまだやぶの中である。

(本誌初出 「消えた」病院からの肺炎報告=渡辺真理子 6/2)

(渡辺真理子・学習院大学経済学部教授)


 ■人物略歴

わたなべ・まりこ

 1968年東京都生まれ。1991年東京大学経済学部卒業、アジア経済研究所入所。2011年、東京大学大学院経済学研究科博士課程単位取得、東京大学博士(経済学)。13年9月より現職。専門は中国経済、応用ミクロ経済学。

インタビュー

週刊エコノミスト最新号のご案内

週刊エコノミスト最新号

4月30日・5月7日合併号

崖っぷち中国14 今年は3%成長も。コロナ失政と産業高度化に失敗した習近平■柯隆17 米中スマホ競争 アップル販売24%減 ファーウェイがシェア逆転■高口康太18 習近平体制 「経済司令塔」不在の危うさ 側近は忖度と忠誠合戦に終始■斎藤尚登20 国潮熱 コスメやスマホの国産品販売増 排外主義を強め「 [目次を見る]

デジタル紙面ビューアーで読む

おすすめ情報

編集部からのおすすめ

最新の注目記事