「犬の鼻並み」のセンサーも開発完了? 「匂いセンサー」が本格的に実用化される時代がやって来る
電子デバイスの開発は、人間の五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、臭覚)を電子技術で実現する取り組みだと言っても過言ではない。視覚は、カメラに使われる撮像デバイスであるCCD(電荷結合素子)やCMOSイメージセンサーが実現しており、実際に先端医療の現場では、イメージセンサーなどを用いて失った視力を回復させる試みがある。また、聴覚はイヤホンなどに搭載されているMEMS(微小電気機械システム)マイクロホン、触覚は感圧センサーやタッチパネル、味覚に関してはペーハーや糖度などを測ることができる各種センサーがそれぞれ機能を実現しており、既に広く普及している。さらに計算や記憶をつかさどる脳の機能はCPU(中央演算処理装置)やメモリーで担うことができ、近年では皮膚に貼り付けることができるフレキシブルなデバイスの開発も活発化しており、人工知能(AI)の発展がこれからの社会を大きく変革していくという期待も大きい。
こうしたなかで、電子デバイスの性能にまだ差があると言われてきたのが嗅覚である。匂いを判定する電子デバイスとしては、既にガス漏れなどを検知するガスセンサーが実用化され、家庭内や工場などで多用されてはいるが、特定の臭気は判別できたとしても、人間の鼻のようにあらゆる匂いや香りを敏感に嗅ぎ分けたり、人間の鼻以上の感度を実現したりすることは難しかった。だが、近年の研究開発によって、そうした「鋭敏な嗅ぎ分け」が実現できる日もそう遠くはなくなりつつある。
匂いを可視化
匂いセンサーの有望企業の一つが、「小型ニオイイメージングセンサー」の開発を標榜(ひょうぼう)して2014年に設立されたアロマビットだ。開発している小型匂いセンサーは、特定物質を検知する従来のガスセンサーと異なり、さまざまな匂いを入力すると生物の嗅覚のように可視化パターンを出力できることが特徴。匂いの分子が水晶振動子(QCM)の表面に配した吸着膜へ吸脱着する際に共振周波数が変化する特性を応用した。特殊な構造のQCMを採用して、従来のQCMでは実現が困難だった同一基板上のマルチアレイ型QCMを実現している。
16年には、電子部品大手の太陽誘電と共同開発契約を締結。19年3月にはソニーのコーポレートベンチャーキャピタル「Sony Innovation Fund」や既存株主から2億5000万円の出資を獲得した。19年7月には豊橋技術科学大学の澤田和明教授らが開発した超高感度シリコンCMOS型イオンイメージングセンサー技術に、アロマビットの匂い受容体膜の技術を融合して、1ミリメートル角のサイズに犬の鼻と同等の受容体数(約1200種類)を備えたシリコンCMOS型匂いセンサーの開発にも成功。この成功によって、超高感度で小型な「水晶振動子型」と、超小型かつ優れた匂い解像度を有する「シリコンCMOS型」という2種類の匂いセンサー素子技術を持つことになった。ちなみに、シリコンCMOS型については、豊橋技科大が認定する初のベンチャー企業として、アロマビットシリコンセンサテクノロジーを設立し事業化を進めている。
事業の拡大に向けて、19年10月には日本たばこ産業(JT)と既存株主のインドネシアEast Venturesを引受先とした総額3億5000万円の第三者割当増資を実施。続いて19年11月にはソニーと大和証券グループの投資ファンドなどからフォローオン増資を実施し、一連の投資ラウンドで4億5000万円を調達して、センサーの半導体化による超小型化・高性能化でデジタル嗅覚市場の拡大を目指すと発表した。
18年末からはデスクトップ型の匂い測定装置「Aroma Coder」(アロマコーダー)や匂いセンサーモジュールシステムの開発キットなどを展開して、食品、日用品、コスメティクス、産業機械、ロボティクス、モビリティー、見守り・ヘルスケア、農業、マーケティングなど幅広い分野から引き合いを得ている。20年9月には、さらなる小型化・軽量化を実現した「Aroma Coder V2」の販売を開始しており、使い勝手を向上させた。今後は、匂いセンサーのさらなる高機能化や小型化を図るとともに、量産体制の整備なども進めていく。さらに新製品・新サービスの開発体制を強化し、世界初となるデジタル匂いデータベースの整備などにも取り組む方針だ。
食品の品質を管理
コネクターや自動車部品を手がけるI−PEX(旧・第一精工)も、新規事業の一つとして食品の品質管理や空間上の臭気検知などに活用できる匂いセンサーを開発し、サンプル提供を行っている。
同社が開発しているMEMS匂いセンサー「ノーズアットメムス(nose@MEMS)」は、複数の「匂い分子のパターン」を認識・識別することが可能。PZT(チタン酸ジルコン酸鉛)の圧電薄膜に異なる感応膜を塗布した検知素子20種類を1枚のセンサーチップ上に搭載し、電圧をかけて共振している感応膜に匂い分子を付着させ、共振周波数の変化から数値データを取得し、パターンを照合して匂いを識別する仕組みだ。PZT圧電薄膜を用いたMEMSの活用で小型・低コスト化が見込め、検知素子の数を増やすことで、より多くの匂いを識別できる。センサーチップ9個を組み合わせると最大180種類の匂いを検知できる。
19年6月には、凸版印刷と匂いセンシング事業を連携して進めることに合意している。ノーズアットメムスに凸版印刷のAI関連技術などを融合し、両社でセンサー、AI、データベース、アプリケーションといった一連の「匂いセンサーエコシステム」を構築して、食品の品質管理や空間上の臭気検知など総合的なサービスの提供を目指す。
ちなみに、このノーズアットメムスは、19年10月に開催されたIT技術とエレクトロニクスの国際展示会「CEATEC 2019」でCEATEC AWARDデバイス&テクノロジー部門の準グランプリを獲得している。
脳の識別を模倣
海外企業では、フランスのアリベール・テクノロジーズ(Aryballe Technologies)が小型の匂いセンサーの開発に取り組んでいる。同社は14年に設立されたベンチャー企業で、フランスの研究機関であるCEA−Leti(原子力庁電子情報技術研究所)と共同開発した匂いセンサーを展開している。生化学センサー、光学技術、機械学習を組み合わせて、人間の脳が匂いを識別するプロセスを模倣したシステムで、ほぼリアルタイムでさまざまな臭気を検出できる。
一般的な臭気評価装置はコストが高く、一定の設置面積も必要で、検出できる臭気の種類も限定されているが、アリベールの製品は片手で持つことができ、わずか数秒で数千種の臭気データベースから500以上の臭気の検出ができる。食品、香料、化粧品などの研究のほか、家電製品やパーソナルケア領域への活用が見込まれている。
16年に旭化成がアリベールに出資したほか、韓国の現代自動車も出資し、センサーで車内の匂いを測定して運転者に通知するシステムの開発なども進めている。大手香料メーカーの米インターナショナル・フレバー・アンド・フレグランスも出資者に名を連ねており、食品、香料、化粧品などの分野でアリベールの技術を活用している。19年3月には、自動車業界における臭気測定の基準を確立するためのコンソーシアム「Digital Olfaction Automotive Consortium(DOAC)」を立ち上げた。車室内の匂いを分析し、燃料漏れなどコンポーネントの誤動作を示すものと、その他の匂いを定量化して判別できるようにする。また、一般的に「新車の匂い」と形容されるような臭気を標準化したり、オーダーメードしたり、逆に一切排除したりできるようにする。このDOACには日本の大手ティア1であるデンソーも参加している。
20年7月には、新規の出資者として、韓国サムスン電子の投資部門であるサムスンベンチャーズ、調理器具メーカーのグループセブの投資部門、既存投資家として仏INNOVACOM、仏CEMAG INVEST、旭化成、米HCVCなどが参加し、700万ユーロの出資を獲得。これで累計の資金調達額は1700万ユーロとなった。20年後半には小型センサーの発売などを予定しているという。
医療分野では、呼気だけでがんや糖尿病などを発症している可能性がある人を判別できるという話があるが、こうした匂いセンサーの実用化とさらなる高性能化、電子デバイス化による低コスト化が進めば、匂いや香りを活用したビジネスが世界各地で本格的に立ち上がり、私たちのQOL(生活の質)の向上にも大きく寄与してくれるだろう。
(津村明宏・電子デバイス産業新聞編集長)
(本誌初出 開発進む匂いセンサー 鋭敏な嗅ぎ分け実現へ=津村明宏/46 20201013)