経済成長がなければ人間は生きていくことができない=小林慶一郎(東京財団政策研究所研究主幹)
環境・資源の制約なく「成長」は可能か
地球環境や人間世界の持続性を考えるとき、経済成長が現代社会の目標として我々のコンセンサスになっていることは素朴に不思議である。
私は大学院まで理科系の学生だったので、経済学や経済政策の議論で「2%成長」のように永久に経済が成長する社会が理想とされることに、当初はひどく違和感を覚えた。地球上の資源やエネルギーは有限なのだから、生産量やエネルギー消費が永久に成長を続けることは不可能だ。
たとえば国内総生産(GDP)が年率2%で成長し続ければ、1000年後には、現在の4億倍という非現実的な値になる。素朴な理系の発想としては、人間社会もいつか成長のない定常状態に達するはずだ、と思ってしまう。
一方で、いま、与野党の政治家がこぞって経済成長を目指していることに我々は心から納得するという現実もある。
現代の「信仰」
経済成長は、科学的な実現可能性の有無を度外視して社会が目標とするという意味で、現代の「信仰」と言っていいかもしれない。経済成長が社会の目標とされること、すなわち「経済成長主義」には、いくつかの思想的な理由がある。
第一の理由は、経済成長は経済政策の目標として現代の「自由主義」と非常に相性がいいことである。政治哲学者マイケル・サンデル(ハーバード大学教授)が言うように、自由な現代社会では、市民(個人も企業も)は多様な価値観を持つので、政府が国全体として目標とすべき単一の価値観を決めることはできない。
アメリカの経済政策でも、むかしは自立した独立自営農民の精神が育つような産業構造を目指すべきではないか、と議論されたが、それは現代では特定の価値観の押し付けになる。自由な社会の経済政策は価値中立的でなければならない。すると、目標にできるのは消去法で、財やサービスの「総量」すなわちGDPを増やすことしかなくなる。こうして個人の多様な価値観を尊重する自由な社会では、価値中立的な経済成長が社会の目標となる。
経済成長主義が普及する第二の理由は、為政者が「清算の日」を先送りできること、である。政治思想史学者ジョン・G・A・ポーコック(ジョンズ・ホプキンス大学名誉教授)は、アメリカ独立直後の連邦主義者の思想を紹介して「商業は『徳』である」と表現した。ここで「徳」とは特殊な意味であり、為政者が(古い約束を履行することなく)新しい約束を創始する能力、を指している(詳しくは拙著『時間の経済学』を参照のこと)。
経済成長によって、社会のフロンティアが広がれば、社会の各層に対する所得再配分の約束を履行しなくても、為政者は新しい目標を提示し、約束を更新することができる。所得再配分という古い約束の履行は、通常、大きな「痛み」をともなうが、経済成長が続けば、古い約束の「清算の日」を永久に先送りできる。成長=先送りなのである。これが与党野党を問わず、「経済成長主義」が政治家に人気がある理由だと言える。
第三の理由はもう少し深いところにある。哲学者のハンナ・アーレントは著書『全体主義の起原』において、現代人の基本的経験は「見捨てられていること」の経験である、と言った。伝統的な共同体社会が崩壊し、個人にとって、生まれながらに定まった居場所がなくなった現代社会では、多くの人は社会の中で自分が無用の存在となり、誰からも必要とされていないと感じる。人間はその経験に耐えることができず、全体主義のイデオロギーに身を投じてしまう。
アーレントのこの観察が示していることは、個人は自分ひとりでは自由の空虚さに耐えられない、ということであり、「社会=全体」のなんらかの価値に献身することによって初めて個人の自由な人生に価値が与えられるということである。
通常の自由主義は、誰の支えも必要としない独立した個人を想定し、その個人の自由な行動を邪魔しない社会制度に価値があると考える。しかし、アーレントの指摘は、社会の全体の価値体系の中で意味づけられなければ、個人の自由な人生は価値あるものとして存立できない、ということである。
このとき、多様な価値観があふれる現代社会で、個人の人生を意味づける社会理念の最大公約数が「経済成長」なのである。
個人は、直接的または間接的に、経済成長に貢献することによって、自己の価値を実感することができる。このとき、なによりも経済が「成長」することが本質的に重要である。個人が力を尽くしても、生活水準が変わらなければ、経済の発展に貢献したという実感は得られない。
「知の進歩」が社会理念に
心理学の研究でも知られているが、人間は生活が変化しないとその生活水準を意識することは難しく、状態が良い方向に「変化」して初めて、喜びや満足感を感じる。個人が経済に貢献することに自分の人生の意味を見いだせるようになるためには、経済が「成長」することが必要なのである。こうして「経済成長」が現代社会の目標として広くコンセンサスとなる。
さらに、その成長は「永続」しなければならない。もし将来のどこかの時点で経済成長が終わるなら、その時点で、個人の人生に意味を与えるもの(=成長)がなくなってしまう。将来において人生に意味がなくなるなら、現在に時間を遡行(そこう)しても個人の人生を意味づけることはできない。明日の生活に意味がなくても今日の生活には意味がある、というふうには人は考えられないからだ。よって「成長」という理念は永続するものでなければならないのである。
しかし、冒頭に記したとおり、経済成長は物理的には永続できない。これからの人間社会を持続可能なものとするには、経済成長に代えて、なにか別の「成長」を目標とすべきだということである。
人工知能や情報技術による「知の進歩」が、経済成長に代わる新しい社会理念となるのかもしれない。人間の知性が人工知能によって増強されれば、知の発展の可能性は無限に広がるが、知の進歩は資源制約や環境制約にはしばられない。
そのような「成長」なら個人の自由な人生に意味を付与するとともに、世界の持続性と両立できるのではないか。経済成長主義を超えた新しい政治哲学が求められている。
(本誌初出 経済成長はなぜ必要なのか=小林慶一郎 2019年8月5日号)
(小林慶一郎・東京財団政策研究所 研究主幹)
■人物略歴
こばやし・けいいちろう
1966年兵庫県出身。91年通商産業省(現経済産業省)入省。98年シカゴ大学大学院博士課程修了(経済学)。2019年4月から現職。専門はマクロ経済学。慶応義塾大学経済学部客員教授を兼務。
本欄は、堀井亮(大阪大学教授)、小林慶一郎(東京財団政策研究所研究主幹)、高橋賢(横浜国立大学教授)、宮本弘暁(国際通貨基金エコノミスト)、稲水伸行(東京大学准教授)、倉地真太郎(明治大学専任講師)の6氏が交代で執筆します。