経済・企業学者が斬る・視点争点

レジ前の「立ち位置表示」にも応用?……コロナ対策で大注目「行動経済学」の手法「ナッジ」とは何か

約1・3㍍間隔の印に沿ってレジ前に並ぶ客=金沢市諸江町のアル・プラザ金沢で2020年4月10日午前11時39分、井手千夏撮影
約1・3㍍間隔の印に沿ってレジ前に並ぶ客=金沢市諸江町のアル・プラザ金沢で2020年4月10日午前11時39分、井手千夏撮影

「あなたは少数派」で納税率向上も

新型コロナウイルスの感染が流行して以降、スーパーのレジ前の床に、立ち位置を示す印を見かけるようになった。

客は自然と印の上に立ち、レジ前に列ができても、前後の人とのソーシャルディスタンス(社会的距離)が保てるようになっている。

何かを強制したり、金銭的な動機付けを加えずとも、メッセージや選択肢の提示の仕方を工夫することで、人々の行動をより望ましい方向に導く。

こうした方法を行動経済学では「ナッジ(Nudge)」と呼ぶ。

ナッジとは、もともと英語で「肘でそっとつつく」という意味。

強制せず、知らず知らずのうちに選択を導くには、実験・行動経済学が明らかにしてきた人間行動の「癖」を利用する。

例えば、人間には、利益よりも損失に反応したり、将来よりも現在の問題を過大視したり(現在バイアス)、多くの人が行動するのと同じように自分も行動しがちになる(同調性バイアス)、といった傾向がある。

ナッジはこうした特性を利用し、最適な行動に誘導する。

提唱したのは、2017年にノーベル経済学賞を受賞した米シカゴ大学のリチャード・セイラー教授だ。

08年、法学者キャス・サンスティーン氏との共著『実践行動経済学』(原題『ナッジ』)でナッジを理論化し、注目されるようになった。

リチャード・H・セイラー米シカゴ大学=2017(平成29)年10月9日、米シカゴ(ロイター=共同)
リチャード・H・セイラー米シカゴ大学=2017(平成29)年10月9日、米シカゴ(ロイター=共同)

新しい政策手法として取り入れようとする動きも、英国を皮切りに始まった。

英キャメロン政権は10年、ナッジの利用を検討する組織「行動洞察チーム(BIT)」を内閣府に設置。

さまざまな社会実験を通して政策提言をした。

ナッジを政策に応用するためのこうした専門チームは通称「ナッジ・ユニット」と呼ばれ、米国でも14年に科学技術政策局が担当チームを設置。

15年にはオバマ前大統領が行動科学を温暖化対策や教育分野向けに活用する大統領令を出した。

日本でも環境省が17年4月、産学官連携の「日本版ナッジ・ユニット(BEST)」を設立した。

絶大な費用対効果

各国政府がナッジに興味を持ったきっかけの一つに、英国でナッジを使って納税を促すと納税率が上がったという研究結果がある。

マイケル・ホールズワースら行動経済学者は11~12年、BITと税務当局の英歳入関税庁(HMRC)と共同で、税金の確定申告はしたが期限内に納税していない約10万人に対し、納税を促すメッセージとしてどういった文章が有効かを調べる実験を行った。

具体的には、次の五つのメッセージのうち、一つが督促状に追加されていた際、納税率がどう変わるか調べた。

(A)「10人中9人が期限内に税金を支払っています」

(B)「英国では10人中9人が期限内に税金を支払っています」

(C)「英国では10人中9人が期限内に税金を支払っています。あなたは、現在のところまだ納税していない非常に少数派の人です」

(D)「税金を支払うことは、私たちみんなが国民健康保険、道路、学校といった不可欠な公共サービスを享受できることを意味します」

(E)「税金を支払わないことは、私たちみんなが国民健康保険、道路、学校といった不可欠な公共サービスを失うことを意味します」

メッセージ(A)~(C)は、納税が社会規範であることを示し、同調性バイアスを利用して納税を促している。

(D)と(E)は、人々が損失を回避する傾向があることから、公共サービスが得られるのか、失われるのかを強調している。

分析の結果、最も効果が大きかったのは(C)の「あなたは非常に少数派」と強調したメッセージだった。

実験開始から23日以内に納税をした人の割合が、従来用いていた督促状と比較して、平均で3・8%増えた。

その次が、英国ではほとんど期限内に支払われていると強調した(B)で2・1%の上昇だった。

続いて、公共サービスを強調した(D)と(E)が各1・6%増、(A)は1・3%増だった(年齢や未納税額などの影響も考慮した分析ではより高い効果になるが、ここでは以下の試算のため最も単純な分析の結果を紹介している)。

いずれも増加率としては小さく見えるが、納税額に換算すると大きい(図)。

例えば、最も効果が大きかった(C)のメッセージが調査対象者全員に送付されていて同様の効果が得られていたとしたら、1年で約1091万ポンド(約15億円)の追加税収を生んでいた計算となる。

督促状にメッセージを一文追加するための追加費用がほぼゼロであることを考えると、この費用対効果は大きい。

他と比べて省エネ促す

日本で同様の納税率を上げるための社会実験がなされていることは聞いたことがないが、環境や医療などでナッジを導入する研究は進んでいる。

例えば、環境省は17年、電力・ガスの使用量を各世帯に通知する際、省エネを促す「省エネリポート」を合わせて送付する実証事業を開始。

リポートには「過去6カ月のお客様の使用量は、よく似た家族構成の世帯の使用量を上回っています。年間2万円の負担増です」といった他の世帯との比較や、カーテンで冷気を遮断すると年間1000円節約できるといった省エネのコツを記した。

17~18年度は大手電力・ガス会社を通じて約20万~30万世帯に配布し、最大2%程度の二酸化炭素の削減効果が見られたとしている。

このほか、がん検診の受診率向上策に活用する取り組みや、働き方改革の一環としてナッジを取り入れた企業や病院、警察もある。

コロナ禍においても、感染予防のために行動変容を促す手法としてさまざまなナッジが導入された。

冒頭に紹介したレジ前の立ち位置を示した印、役所の入り口の床に黄色いテープで貼り付けられた消毒液への矢印、手洗いを促すためにトイレなどに張り出された「隣の人は手を洗っていますか?」という張り紙……と枚挙にいとまがない。

「あなたと身近な人の命を守れるよう、日常生活を見直してみましょう」というメッセージとともに「ビデオ通話でオンライン帰省」、「待てる買い物は通販で」などと具体的な選択肢を示しながら「新しい生活様式」への移行を促す取り組みも見られる。

コロナ禍は、これまでの我々の生活を見直す大きなきっかけとなった。

新しい生活様式の模索が進む中、今後の社会をどう望ましいものに変えていくか。

その仕掛けの一つであるナッジは、社会のあり方を問い直す糸口にもなり得る。

(花木伸行・大阪大学社会経済研究所教授)

(本誌初出 コロナ後の社会導く「ナッジ」=花木伸行 20201027)


花木伸行(はなき・のぶゆき)

 1971年生まれ。97年筑波大学国際関係学類卒業、2003年米コロンビア大学博士(経済学)。筑波大学専任講師、仏エクス・マルセイユ大学教授、仏ニース大学教授を経て、19年より現職。専門は実験・行動経済学。


 本欄は、花木伸行(大阪大学教授)、碇邦生(大分大学講師)、吉田裕司(滋賀大学教授)、生稲史彦(中央大学教授)、高野久紀(京都大学准教授)の5氏が交代で執筆します。

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