キャッシュレスで黒子になる銀行とカード会社=山本正行/編集部
秋分の日の昼下がり、観光客でごった返す東京・浅草雷門周辺。観光人力車の車夫たちが外国人観光客を相手に英語で呼び込む光景は、すっかりおなじみだ。
観光人力車50台を走らせる「えびす屋浅草」では30分9000円のコース(2人乗車)が一番人気だという。梶原浩介所長によると、この日は3連休中でもあり日本人観光客の方が多かったが、平日は外国人が6割を占める日もあり、その半数は中国系だという。
支払い方法は現金のみだったが、外国人観光客の増加に伴い、2年前からクレジットカード払いも取り扱っている。さらに増え続ける中国人観光客への対応として、今年2月からは中国の旧正月・春節に合わせて中国の電子商取引最大手「アリババグループ」が運営する二次元コード(QRコード)を使ったスマートフォン決済サービス「アリペイ」を導入し、キャッシュレス対応を進めている。
今も現金払いが主流だが、キャッシュレス支払いが増え、アリペイでの支払いも増えている。梶原さんはいずれキャッシュレスが主流になると見ており、「動き回る仕事なので現金よりも扱いやすい。訪日観光客と接する最前線にあり、キャッシュレス化にはできるだけ対応していきたい」と話す。
キャッシュレス比率40%
政府は民間最終消費支出のうち、クレジットカードや電子マネーなどで支払われる「キャッシュレス比率」について、2025年までに現在の18%から倍の40%にする目標を掲げている。キャッシュレス化推進のきっかけは、20年東京五輪の開催決定だ。
日本のキャッシュレス比率は、韓国(89%)や中国(60%)、米国(45%)を大きく下回る。指摘される主な原因は、海外で広く普及するビザやマスターカードなどのクレジットカードが利用できる店舗の少なさだ。
理由の一つは、小売業がカード会社に支払う手数料の問題だ。店舗の規模や業態により異なるが、海外では1%以下も珍しくないのに対し、日本ではおおむね2~5%だ。また決済端末の操作が複雑だという指摘もある。一括処理で完了する海外に対し、日本ではクレジットカードか電子マネーかを選択し、さらに分割して支払う方法の指定も必要だ。
消費者側の根強い現金指向という問題もある。日本では街中の至る所に現金自動受払機(ATM)があり、高額紙幣の使用を拒否されることもなく、現金の不便さを感じることは少ない。そのためクレジットカードや電子マネーがいかに便利でも、普段から現金で満足している人にとってキャッシュレスに移行するメリットは少ない。
片やアリペイが一気に普及した中国では紙幣は汚く、偽札を受け取る可能性もある。カードを提示する際には財布ごとひったくられる危険を感じることもあるという。そのような環境で消費者がスマホによる決済を積極的に利用するのもうなずける。日本とは明らかに事情が異なるのだ。
キャッシュレス化を推進すると一体誰が得するのか。キャッシュレスを担うクレジットカード会社、電子マネー会社、銀行などが決済件数を増やし手数料収入を増やす効果はあるだろう。しかしクレジットカード会社の反応は今ひとつだ。利用可能店舗を増やすにあたり、既に売り上げの大きい大手流通業などには拡大の余地がなく、今後は売り上げの小さい中小小売店店舗などを中心に開拓することになる。そうなれば、規模は大きくなるがコストがかさみ収益が下がることになりかねないのである。
現金のコストは8兆円
キャッシュレス化で期待されるのは、現金を取り扱う社会インフラコスト8兆円の削減効果だ。このコストはATMの維持やレジでの現金管理などで、銀行や流通業が負担している。コスト削減効果が表れれば商品・サービスの質が高まり、価格も下がる効果が期待でき、消費者にもメリットはある。
実際に身近なところでキャッシュレスの効果は現れている。JR東日本は02年にIC交通乗車券「Suica」を導入して以来、駅の券売機は激減し、切符の購入に並ぶ長い行列も消えた。また係員が券売機から大量の現金を袋詰めにして銀行に運ぶ手間も省けた。
キャッシュレス化に向けて、政府はどのような取り組みを進めようとしているのか、カード業界を管轄する経済産業省は今年7月、産官学による「キャッシュレス推進協議会」を設置し、同年4月に発表した「キャッシュレス・ビジョン」による提言をもとに検討を進める方針だ。小売店への導入推奨や、加盟店手数料の見直しなどが提案されている。
国内では比較的低コストで提供可能なQRコード決済への参入が相次いでいる。QRコードによるキャッシュレスの普及へ向けた標準化も進める。QRコードは店舗がスマホから利用者を特定するために読み取る情報伝達のフォーマットに過ぎない。だがコードを読み取ることで、スマホアプリがカードや店舗の決済端末の代替になり得ることは注目すべき点だ。
アリペイはグループが持つオンライン店舗での利用歴に加え、収入や学歴などのデータを収集しビッグデータ化し、人工知能(AI)によるローンの自動審査なども行うという。政府はこれに倣い、決済から得られるビッグデータがさまざまな金融サービスに寄与することにも期待し、ビッグデータ活用なども含めた総合的なキャッシュレス体制を支援しようとしている。
肥大化したシステム
しかし、政府が進めるキャッシュレス化の推進には課題も多い。
まず、日本の現金依存文化から、どうやってキャッシュレスの利用を普及させるのかという点だ。使い過ぎ防止に配慮した若年層へのキャッシュレス教育体制など、掘り下げた検討が必要だ。
それ以上に深刻なのが、日本のクレジットカード会社や銀行のシステムが肥大化しており、システムの維持に多大なコストを払うなどの問題を抱えている点だ。大手クレジットカード会社のクレディセゾンは基幹システムの改修に2500億円を投じ、またみずほ銀行はシステムメンテナンスを理由に幾度となくATMなどのサービスを停止する。このような状態で決済の手数料を海外並みの水準にまで下げることができるのだろうか。明快な答えは出ていない。
広がりつつあるスマホ決済も、従来の仕組みを完全に断ち切れていない。銀行口座から事前にアプリに入金して支払うものや、店舗ではQRで支払った金額を事前登録したクレジットカードで支払うものも多い。
ただ、既存の概念やシステムを崩す動きも出ている。スマホ決済ではクレジットカードに必要な決済端末などは不要で運営コストは低く、加盟店が支払う手数料も低減される。無料電話アプリ「LINE」(ライン)が運営する「LINE Pay」(ラインペイ)は21年7月まで加盟店手数料を無料化し、手数料の値下げ合戦に火をつけた。
銀行口座やクレジットカードに依存しない個人間送金サービスも始まっている。17年5月には銀行法が改正され、銀行以外の事業者がスマホアプリを使って利用者が銀行の口座情報を取得し、送金を行うことが正式に認められた。いわゆるフィンテックの潮流だ。ネットショップの支払いでは、スマホ決済アプリから直接銀行振り込みを行い、残高が分かるアプリを確認しながら資金を別の口座に移動する、ということも可能になる。
問題を抱えつつも、キャッシュレスの基盤自体はゆるやかに整いつつある。今後はスマホ決済や小遣い帳アプリなどが身近になり、便利とは言えなかったネットバンキングやカード会社のウェブサービスの代替となっていくだろう。財布から現金やカードを出す場面から、スマホで決済する場面が当たり前になるかもしれない。従来の仕組みに依存するクレジットカード会社や銀行が消費者の側に立つ機会は減り、やがて黒衣と化す時代となる──。これがキャッシュレス決済の近未来像だ。
(山本正行・山本国際コンサルタンツ代表)
(編集部)
高コストの決済ネットワーク 当事者に忖度? 議論なし
「キャッシュレス推進協議会」(推進協)での議論の対象は、消費者や小売業者などへの施策に注目が集まりがちだが、議論されるべき課題の一つは、コストがかかるとされる「決済ネットワーク問題」だ。
日本のクレジットカード決済取引は、(1)加盟店に置かれているPOS(販売時点情報管理)システム・端末と、クレジットカード会社との間、(2)複数のクレジットカード会社の間を、NTTデータが運営する「CAFIS」と国際ブランドのJCBが運営する「CARDNET」の2大決済ネットワークが結んでいる。国内のほとんどのクレジットカード決済の取引はこのどちらかのネットワークを通過しており、付随する専用線利用料や代金精算にかかるフィー(料金)などは、クレジットカード会社が払っている。
政府がまとめたキャッシュレス・ビジョンは、分割払いなどを含むさまざまな日本固有の要件を満たすため、決済端末やCAFIS、CARDNETが肥大化し、運用コストが高くなっている点を指摘している。一部のクレジットカード会社や有識者の中には、決済にかかるコストを削減するためにはCAFIS、CARDNETを排除すべきとする強硬派もいる。現実的に排除は難しいものの、抜本的な見直しは必要であり、推進協は決済ネットワーク問題を深く掘り下げる場となるべきだろう。ところが、これまでの推進協での検討内容を見る限り、肝心の決済ネットワーク問題には触れず、QRコードの統一化に関する議論に終始しているようだ。
推進協の運営を見ると、JCBがメンバーとして参加し、NTTデータの関連企業の「NTTデータ経営研究所」が運営や報告書に引用されるさまざまな調査を担っている。決済ネットワーク問題の議論は、JCBとNTTデータのビジネス上、利益相反にあたるわけだ。
万が一、決済ネットワーク問題に意図的に触れないという「忖度(そんたく)」があったとすれば、ここでの議論は茶番に終わる。
(山本正行)